2012年08月09日に開催された『ギークのターニングポイント』のノートです。"どのように生きるか?""そのためにどうすべきか?"というメッセージがあちこちに登場していて、(今の自分には)とてもよかったです。あと、"わくわく感""モヤモヤ感"について暗黙のコンセンサスが共有されていたのは、意外と重要だと思いました。そのような感覚に対して自覚的な行動を起こせるという点がポイントになるのでしょうか。
◆概要
◇主催 : Web Cat Studio
◇ハッシュタグ : #webcat
◇講演者
・吉岡 弘隆 氏
・武部 雄一 氏
・白石 俊平 氏
◇パネルディスカッションのテーマ
A. 踏み出したエピソード
B. エンジニアのキャリアについて
C. 仕事術について
D. スキルアップについて
E. 後援者同士で聞いてみたいこと
◆はじめに
◇キャリアについて
一般的に次の選択肢がある。
・転職
・異動
・独立
◇エンジニアのキャリアについて
エンジニアには上記キャリアの中間形態となるキャリアが存在する。
他の職種よりも選択肢が多い。
・働きながら技術のコミュニティを主宰(移動・独立)
・自分で会社をやりながら技術顧問・フェローとして複数の会社と繋がる(転職・独立)
・プロダクトやサービスを広げるためにエヴァンジェリスト、それから他のことも(移動・転職)
◇新たなキャリアを踏み出すことについて
このような選択肢を取り、実際に踏み出すのは怖い。
今日は踏み出している3人に来てもらった。
◆目的
◇次の点について持ち帰ってもらいたい
・実際踏み出してみても怖く無い
・そんなに悪くはならない
・いろいろな選択肢があることと、その現状
◇次のことについて考えてもらいたい
・踏み出すか?
・どういう風に?
・いつ?
◆吉岡弘隆氏の年表
◇学生時代
・中学生時代、夏のコンピュータ講座でアセンブラを触る
・高校生のとき、Fortran Cobol, Basic, Lisp, Algol, Pascalを試した。数千行ではなく数十行くらいのコードを書いていた
・大学は工学部に
・大学院で関係データモデルの研究。Prolog, APL, SNOBOL4など
◇1984 / DEC
・日本語版COBOL, VAX/Rdbを作った
・一年間米国に出向してRdbの国際化プロジェクトに入った
・日本語文字コード(JIS X0208:1990, X0212:1990)を作った
標準化委員会では世界中のエキスパートと友達になれる。
行けるなら行ったほうがいい。
◇1994 / Oracle
・本社に出向し、社運をかけるようなプロジェクトに関わった。めちゃくちゃ面白かった
・シリコンバレーの自由闊達の空気に触れることができ、面白かった
・1998年のNetscapeのコード公開、oss運動の始まりに立ち会った
・退社後はNetscapeのコードを見てビルドするのが楽しみだった
◇2000 / MiracleLinux
・Linuxすげーな、世の中変わると思った
・同僚に誘われて社内ベンチャーとしてはじめた
・Samba国際版, Asianuxなどを作った
・Linuxをやっていた関係でコミュニティ活動に興味を持ち、カーネル読書会を始めた
◇2009 / 楽天
・Hacker Centric Cultureを作ることがミッション
・社内SNSの推進。社内勉強会の推進
・社外の人とのコミュニケーションなど
※Hacker Centric Cultureについて
・ソフトは人が作るもの。いいソフト・サービスは素人ではなくプロ・優秀な人が作る
・プロや優秀な人達をどうやって雇う / 育てるのかという経営的な課題がある
・Hacker Centric Cultureで、良いサービスを作ったり、世界に影響を与えるサービスを作る
◇日本とインターネットの世界の常識の違い
インターネットの世界では常識だが、日本では明示的には語られていないことがある。
Google,Facebook, LinkedIn, Twitter, Pinterestなどのコーポレートカルチャーのどこかには共通して共有されているものがある。それは"安く作って高く売る"ではなく、"ハッカーが世の中を変える"というフィロソフィー。
そういうカルチャーをハッカー文化と呼ぶ。
◆武部雄一氏の年表
◇高校生時代
・授業でCOBOLを使ってIOを書いた。テストの成績がよかった。
◇地元の大手の企業(システム開発とは関係ない企業)
・研修は楽しかったが、実際の仕事はめちゃめちゃ面白くない
・決まったオペレーションをやるだけ。人間関係も楽しくない
・周囲の応援もあったが、人生を浪費したくないので一年で止めた
◇バイト
・音楽で食べていくと思い、楽器屋へ
・バイトをしながら安定した仕事を探した
◇システム開発の道へ
・給料の良いバイトを探しているとき、成績のよかったコンピュータのことを思い出した
・COBOLでの開発現場でデスマーチを経験
・リーダー、サブリーダーとして現場を引っ張った
・COBOLはエレガントなコードが書けないので、Javaを書ける言語を使っている会社へ
◇DeNA
・大規模なサービス・システムに関わって技術力の向上したい
・優秀な人達に囲まれて自分をスケールアップしたい
・面白そうな会社をいろいろ回ったが、DeNAが圧倒的に抜けていた
・開発、プロマネ、プロダクトオーナーなどいろいろ経験できた
・ソーシャルゲームが爆発的にはやって、アプリもインフラも未曾有のトラブルを経験。皆で協力してナレッジがたまり、逆にタフになった。
◇現状
・ものつくりから離れている
・エンジニアの採用と育成がミッション
◆白石俊平氏の年表
◇エンジニア時代
・IT業界に行ったのは、仕事にしないと一生パソコンを触らなさそうだから
・修羅場を乗り越えたときに自分の成長した感があり、ベンチャーを渡り歩いた
・どんどん小さい会社に行った(200人→6人→3人)
◇フリーライター
・ある本を書くという夢があり、縁があってテクニカルライターになった
・テクニカルライターは出版社から近く、本が出せた。
・Google がAPIをどんどん出していた時代で、記事を書くとたくさんはてブされた
・いろいろな企業に出入りもできて楽しかった
◇現状
・読書するエンジニアの会を主催
・HTML5のコミュニティを主宰
・Google(API)のExptert
・起業した
・ある会社の技術フェローをしている
◆パネルディスカッション
吉岡
「武部さんの話を聞きたいと思ったんですよ。地域の中で(業界)一番の会社に就職して、親や親戚や地域の人には『よかったねー』といわれていたと思うんですよ。で、一年間過ごしてみて『向いていないなー』とサラリーマンで思ったとしても、止める人はそんなに多くないですよね? そこを踏み出すきっかけを聞きたいな、思いました」
武部
「1回きりの人生の中で公開したくないな、というのがあって。とりわけ、20代から30代辺りが自分の中で築いていけるものが多いでしょう、と。『人生を振り返ったときに"あのとき変えておけば…"となるはずだ』と。そう思ったときに、そこにいると相当薄っぺらい、と。
給料は非常にいいんですよ。なんてたってボーナスが年4回出るんですから。でも見合ってないと思ったんですよ。当時18歳の俺にこんなルーチンワークやらせて、これに金払う会社ってどうなのかなー、と思って。その辺の企業の感覚も含めて釈然としなかったんです。
仕事で頑張って成果出して、みんなでチームワークを発揮して『やったぜ!』みたいな達成間は得られないな、と思って。
『働くってこんなことだっけ?』と思って、『とにかく絶対違うな』と思って、見通しは全然立っていなかったんですけど、『ここじゃないな』と思って踏み切ったんです。
当時は相当説得力がなかったと思いますけど、モヤモヤ感を拭えないまま踏み切ったんですね」
(続く)
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